「カジュ通信2000年秋・冬号より」
暑かった夏もどこへやら。そろそろ年の瀬の気配も感じられる今日、このごろ。
イベントめじろ押しのカジュの様子をお伝えします。11月末にはカジュの守護神、
オオカエデも紅く燃えはじめます。去りゆく今世紀を見送りながら。
巻頭エッセイ
たなか 牧子
染織の仕事に足を踏み入れて、今年で17年目になります。学校を出たばかりの頃は、グループ展だの、公募展だのにせっせと作品を作ってはだし、「やっぱり、この道で大成するには東京で勝負! ハクをつけなきゃ」というようなトンガリまくった心を半ば自分でも持て余していました。
少しでも新しいものを、人がしていないことを、という思考で作品づくりをしていましたから、発信することだけに神経が集中してしまい、他人の作品を心から楽しむ余裕や、そこでもらえる新たなエネルギーに気持ちを浸すようなことはほとんどなかった。
子どもを産んだとき、後産で胎盤と一緒に"根性"も出てしまい、それからは、今までの「根性権化」とは程遠い、お気楽人生がスタートしたのでした。(お陰で身体まで丈夫になりました。)
以来、それまでは、「作ること」のみが最優先だった私の思考は、その時々に目に触れ、肌に触れる出来事にいちいち反応してしまう、「極めつけの寄り道大好きホルモン」に冒されて、閉ざされていた私の目や耳は、一気に開くこととなったのです。
カジュという場所に出会ってからは、(この場所に出会えたのも、本業とは関係ない出来事が生み出した人間関係のお陰でした。)それこそ、今まで、決して触れあうことのなかった分野の人たちとの人間関係の波にもまれる日々で、そこでうまれる様々な刺激が、いつしか、私にはなくてはならないものになってきました。
そして、それを享受するためには、いつも誰かと誰かを、何かと何かを「つなげる」仕事を行なうことが不可欠なのだとということが見えてきました。なにも特別なことではなく、今、目の前にいる人と人、一見関係ないような事と事を、言葉や態度でつないでいくこと、・・・例えば、その場に居合わせた知らない人同士を、紹介してあげることでつなぐとか、誰かの仕事に何かを感じたら、その気持ちを電話や手紙で伝えるとか、そういった簡単なことが、やがて大きなうねりを生み出すような気がしています。
作ること、子どもの母親として生きること、掃除、草むしり、学校で週2回生徒と過ごすこと、カジュで教室をすること、営業、事務仕事、イベントの企画、宣伝活動、地域活動・・・今の私にはどれもが大切な私の仕事で、それらはもう、分けて考えることはできないぐらい、お互いにつながりあった存在です。
最近、私の染織教室では、ここで知り合いになった生徒さん同士が、カジュを離れて一緒に買い物に行ったり、美味しいものを食べに行ったりしているようです。(わ、私も〜っ!!)それがとつてもうれしい。願わくは、その友達の輪が、教室の枠を超えて展開してほしいと思うこのごろです。
この秋・冬、カジュは場所を二階堂のスタジオから街中に移して、2つのイベントを手掛けることとなりました。
一つは、11/4の鎌倉商工会議所主催の映画会(作品は97年にカジュでロケのあった「アベック モン マリ」です。)、もうひとつは12/27のチャリティコンサート。どちらも今まで、カジュで出会った人たちを一気に大きくつなげる催しです。その輪に新たにどんな人が加わるのか、とても楽しみです。発信し、受け取る、このキャッチボールを繰り返しながら、希望だの、愉しさだの、悦びだの、癒しだのを得られるような、そんな活動をアートを中心に展開していけたらと思います。
遠くに目標をおいてそれを目指す、というより、その時できることを積み上げて、ある時、振り返ったら一筋の道ができていました、というようなやり方で、これからもミーハーにやってゆきます。
それが、長年続けてきた染織の仕事にも大きく跳ね返ってくることを信じて。
寄稿・投稿・あ・ら・かると
通信に寄せられた記事の中からいくつかご紹介いたします。
「ガムランお稽古てん末記」 石田 人巳
インドネシア、スラバヤ在住の特派員、石田さんは、
只今、ガムラン(インドネシアの伝統音楽)に凝っています。
2カ月ほど前からガムランを習い始めた。動機は純粋なものでなく、こちらのインドネシア人気質、ゴムのようなイラスティックな性格がこっちにも乗り移ってきたのか、ガムランを趣味とする上司に、「ワインをのみながら、ガムランを練習してみないか」と主人が誘われて、ワインにつられてふらふらと上司宅によばれ、私はついでに頭数をそろえるために必要とされてついて行ったのが始まりだった。(インドネシアでワインほど入手しにくいものはない)
ガムランとはジャワ語で叩くという意味。(スラバヤは首都ジャカルタ、旧都ジョクジャカルタと同じジャワ島にある)。名前の通り打楽器が中心だ。大小3つのクンダン(たいこ)がテンポを刻み、鉄琴のようなサロンが旋律をかなで、ガムランの美しい響きの命でもあるグンデルがひんやりと旋律を装飾する。そして、迷信好きのジャワ人が聖霊が宿ると言うゴンとクンプル・スレンドロ(大小の銅鑼をひもでつるしたもの)が、ゴワーンと曲をひきしめる。この他にもいくつかあって、2弦琴もあるが、これは習いたての素人にはとうてい無理なので、上司の家の壁にうやうやしく飾ってある。(そう、ガムラン一式はこのかたの所有物)。
奏法ももちろんたたくことが中心で、音階も5音で構成されておりいたってシンプルそうに見えるが、それは見せかけだけ。ジャワに古くから伝わるワヤン(影絵の人形劇)の上演中に演奏される曲の一部を今練習しているのだが、まず曲の始めと終わりがよくわからない。ワヤンそのものを通して見た事がないせいもあるが、ワヤンは非常に長く(夜の9時から翌朝の6時まで)、ヴァリエーションも豊富なので、自分がたたいている2分間ほどの1曲も、ワヤンのなかのごくごく一部に過ぎないかと思うと、何だか巨大な迷路の入り口に立っているような気分にさせられる。
今や街中にはロックや、インドネシアの流行歌ダンドゥットなどの現代音楽があふれかえっているが、ジャワ人はやっぱり今でもガムランを愛している。特に中年のおじさんたちは小さい頃からワヤンに慣れ親しんでいるので、「惚れたはれたのラグ・チンタ(ラブ・ソング)より、ガムランが一番」だと言う。
たとえばうちの運転手スパルマンもガムラン好き、ワヤン好きだ。たいてい どこの村でも金持ちの家で結婚式、割礼式などがあると、必ずワヤン一座が招かれ、村の子供たちはワヤンの野外劇を大人たちと一緒に見てきた……・ところで、おかかえ運転手がいる生活!なんて優雅そうに聞こえるかもしれないけれど、その裏をかえせば、外国人が普通の道を歩いたり、乗合バスに乗ったりという日本ではごく当たり前のことができない生活でもあるのです……・・。
ちなみにスパルマンは日本人のもとで働いている運転手の中でもとびきりこわもての、いかつい男で、一見無愛想。だから彼が、メイドたちと昼休みをとっている時に裏方でジャワの古い唄を裏声で口ずさんでいるのが聞こえると、ちょっと「おやっ」ってな感じ。たとえばそれは、タクシーのドライバーが小唄を歌い出すような。そうそう、ワヤンの登場人物や情景描写はすべてダラン(座長)の語りによって表現され、ダランは一晩ぶっ通しで語りつづける。スパルマンが最も尊敬するというダランの録音テープを借りて聞いてみた。その声は、ちょっとダミ声の男の声で、いかにも土臭いのだが、何百年も語り継がれた黒光りする声の芸だ、と幼稚園に子供を迎えに行く車の中で聞きながら一人で納得した次第。インドネシア語が共通語として全国に普及した現代の若い世代になると、家庭の中でジャワ語を使っていても、もうダランの語るジャワ語を理解できない者がほとんどらしい。
今月から音楽学院の先生を招いているので、練習にも気合が入る。それまでの練習は、初心者用の楽譜(ガムランには本来、楽譜はないが便宜的に音階を数字であらわしたもの)を見ながら、「3232、5653」というように音を追っていたのだが、先生が来てから練習方法もがらりと変わった。先生は「ティンドゥンティンドゥン」とか「ウンウンアーウ」と、それぞれのパートを歌いながら指導してくれる。そうすると、いままで数字を追っていただけだったのが、音のニュアンスのようなものがわかってきて、演奏のほうも乗ってくる。(そういえば、三味線のおけいこも、チントンシャンという、くち三味線でしたっけ)。そうして必ずどんなにとちっても、にこにこしながら「バグース(素晴らしい)」と、額の汗をぬぐいながら言ってくださる。(ジャワの人はとくに外国人に対してだと思うが、とにかくほめたおす。日本人が“スラマッ・パギ(おはよう)”と一こと言っただけで、インドネシア語がお上手ですねと、どこへ言ってもいやになるくらい言われた。)
暗くなり始めた街にワルン(屋台)のほの暗い電気がぼっと灯る頃、練習を終え帰途につく。
いつもは無口な運転手が(実際にはこちらが世間話ができるほど言葉ができないからだが)、先生が来てからとてもよくなった、とぽつりと言った。5人しかいないが(本当は10人以上で演奏する)とくにクンダンという太鼓が入るようになってとてもよくなったという。お世辞をいうような人ではないので、ちょっとこいつが言うならそうなのかなと、でもやっぱりまだまだなんだけど。
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「子どもの安全基地 」 加田 洋子
子どもに安価で質のよい演劇・音楽・バレエなどを提供する非営利団体
「鎌倉逗子こども劇場」のメンバー、カジュ友の会会員の加田洋子さん
からの寄稿です。
現代の社会の中、存在するようで、たぶん存在していない、子どもの場所。学校、家、塾…・果たして、その場所に子供達は本当に居るのでしょうか?居るけれど、居ない。そこに魂がないんじゃないだろうかなんて最近の様々なニュースを見て思ったりします。 私は、できるだけチャンスを見つけて、意識的に、我が子に学校以外の友達を作らせています。幼稚園以外の友達、学校以外の友達、そして学校以外の場所、学校以外の活動。 子どもが少なくなっている今、学校や近所で会う友達は限られています。現に、我が子の通う小学校は、3年生は2クラスで42人しかいません。信じられますか?そして、その中で女子はたった12人です。少ないから、皆が仲が良いかといえば、それは違う話で、子ども達がお互いにはずれない様に気を使っているように見える時があります。そんなお互いの緊張した関係がほつれた時、子どもはどうなるんだろうと心配です。限られた世界の中で、自分が否定されてしまった時、こんな狭い社会の中で、あの子達はどこへ助けを求めるのでしょう。子どもには安全基地が必要だと思うのです。今だからこそ、特に。学校や家や友人との関係でつらい事があった時、ひとりになりたい時…。そこは決して逃げこむところではなくて、再生する場所、気持ちを休ませる場所、泣ける場所、元気が出る場所。そこへ行くと、自分に自分らしさが戻る場所であれば、どんな形でも良いと思います。今思い出すと、思春期の私は自分の居場所を見つけられないまま、落ち着かない気持ちで過ごしていたように思います。ここは私のいるところではないような気がする・・という気持ち。学校の友達ともうまくかみ合う事が出来ない、先生ともうまくコミュニケーションできない。それでも学校へ行く、そして家に帰るだけ、隠してしまった自分の気持ち。こんな時、安全基地があったなら、私はもう少し楽に生きられたかもしれません。子どもが思春期の難しい時期に、自分自身の傷を癒したり、変わっていったりするために基地は必要です。そして、自分自身を再生するために人やツールに頼る事は、決して依存ではないと思います。 カジュや子ども劇場がそんな場所になれば良いな、と心から思います。 私が、子ども劇場と関わっている最大の理由は、もちろんお芝居を見るのが大好きというのもあるのですが、思春期の私がまだ安全基地を求めて、私の中に存在しているからなのかもしれません。
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「オカリナは大地からの贈り物」 善久(ミュージシャン)
土からできているオカリナは、世界各地でその原型である土笛が出土されています。
音を出さなくても手にするだけで、とてもあたたか味を感じます。構造は非常に簡単ですが、音色はとても澄んでいて、聴く人を安らかな気持ちにさせます。
実際、私も6年前、オカリナに出会い、感動し、オカリナ奏者になりました。オカリナの音は、人々の心を癒すといわれていますが、一番癒されるのは、オカリナ奏者自身ではないかと思います。オカリナと出会ってから、私の人生は変わり始めました。
以前は、音楽家以外の人と係わることがほとんどありませんでしたが、オカリナを始めてからは、様々な職業の方々との交流が増え、多くの出会いもあり、人の輪が広がっていきました。
これは、オカリナの持つ不思議な力のおかげだと思います。 ここ「カジュ・アート・スペース」の田中さんとお会いできたのも、オカリナのおかげです。6月にお会いして以来、大変親しくしていただいています。
そして、来年1月から、私もオカリナ教室を開かせていただくことになりました。オカリナの音色が、カジュの空間にとけ込んで、私達の心を癒してくれるはずです。
2001年に、オカリナを始めてみませんか?お待ちしています。
◎オカリナの由来について
・現在、日本で使われているのはこのような形ですが、世界的にはまだ丸型や角型の穴が6つや8つの楽器があります。
・オカリナの歴史はとても古くて、世界中各所で原型と思われる土笛が出土され、現在まで受け継がれています。
・現在使われるオカリナは、1860年頃イタリアのボローニャ近郊のブドゥリオという小さな村の菓子職人のジェゼッペ・ドナーティにより考案されました。
・またイタリア語で、ガチョウの子供のことをオカリナと言います。
◎善久(Zenkyu)のオカリナについて
善久のオカリナは笠間のオカリナ作家、平本孝雄氏の制作の「カンターレ・ オカリナ」を使用しています。一本一本丁寧に焼き上げた笠間焼きで、素朴で、とても優しい音色です。
◎善久(Zenkyu)のオカリナ教室について
2001年1月より第2・4月曜日(原則) 大人対象 13:30〜15:00
小学生対象 15:30〜16:00
◎善久(Zenkyu)のプロフィール
本名 鈴木善久。東京音楽大学卒業。テューバを田中真輔、ベースラインを浜瀬元彦に、オカリナを山田恭弘の各氏に師事。
「東京ユーフォニアム四重奏団」、「東京プレミアム・オカリナ・アンサンブル」、「BRASS XTOKYO」他、数多くのグループに所属。
ホテル「グランデコ」サロンミュージックフェスティバルに参加、長野オリンピック冬季競技大会記念切手発売ファンファーレ演奏他、全国各地でコンサートや芸術鑑賞会を行なっている。また、雅楽の笙を13才より宮内庁雅楽部楽長故豊雄秋、多忠雄氏に師事。現在、ソロのオカリナ・笙・ケーナの演奏で各地で活躍中。
「日本酒指導師範」の免許をもつ珍しい音楽家でもある。
善久さんのことは、
上遠野(カドノ)音楽事務所へ
「葉 祥明さんにお会いして」 稲垣麻由美(編集スタッフ)
先日、「図書館とともだち鎌倉」主催の「著者を囲む会」で、葉 祥明さんのお話を聞く機会がありました。葉 祥明さん関しては、私が今更お話するまでのことはないと思います。作風の通り、ハートフルでユーモアに富んでいて、思慮深い方でした。 いくつかキーワードをいただいたのでご紹介したいと思います。
葉さんは、小学生の頃、授業も聞かず、毎日毎日、空や雲、木々の揺れる様子を教室からずっと眺めている子どもだったそうです。お陰で通知簿には先生から「注意散漫」と。でもお母様は、「あんたは勉強は下手くそだけど、絵は上手だものね。」と育てて下さったのだそうです。葉さんいわく、「10才までにやりたいことをとことんやらせると、それは必ず職業につながる。」そうです。
また、今の17才の問題に関しては、「親から心から愛してもらっているという自覚が持てないまま育ってしまった子ども達の不幸」とおっしゃいました。親となったからには、無条件の愛を注ぎたい。覚悟を持ちたい。その漠然とした「覚悟」をあえてはっきり言葉にするなら、「人様を殺すぐらいなら、まず私を先に殺しなさい。」と言い切れる覚悟だそうです。
次回の「著者を囲む会」は、ラオスの文字を持たない民族「モン族」の子どもに関するノンフィクション作家、安井清子さんがゲストです。
12月1日(金)午前10:00〜 鎌倉中央図書館3階にて。
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「結婚した男はバドミントン友達だった」 井上洋子
共通の愉快な仲間達がいて、無心に羽を追い珍プレイに笑い転げ、その後はビールで乾杯した。スポーツの楽しみの前に男女は平等だった。
ところがだ。結婚したら私だけ妊娠した(あたりまえだっつの)。夫は変わりなくいそいそ練習に出かけていく。仕方ないのでその後のビールにだけ顔を出した(バー自販)。そのときの話を聞いておくれ。
夫:「もう1本飲もうっと。だってさーうちではあんまり飲ませてもらえないんだよね。」
私:「えーうそ、なにいってんの!」(ほんとにびっくり。後できいたら単なるうけ狙いだったんだと。けっ)一方、仲間達は大よろこび。
♂1:「おお智陽、よしよし、おまえかわいそうだなあ・・・」
私:「やめてよ。自分が飲みたい時に飲めなくなるようなこと、私が言うわけないじゃん!」
ところがムキになればなるほど、この手の話は真実味を帯びるらしい。
♂2:「まあ飲め、今日は飲ましたる。俺が許す・・!」
♂3:「たまにはいいじゃあないの」
これ以上何を言っても無駄だと知って、私は口をつぐんだ。
出産後半年たって、子連れでコートに戻った私。しかし赤ん坊が泣けばゲーム続行もままならない。たまに夫と家で昼寝してもらって、そおっと抜け出すようになった。やっと取り戻した私の時間!ところが仲間の一言は、
♂3:「エー旦那が子守りしてんの!?かわいそう!」
私:「!!?*@#?」
あのねえ。わたしや日夜一人でかわいいとはいえ往々にして理解不能の赤ん坊と向き合っているんだよ(育休1年いただいた)。1週か2週に1度たった1時間、夫に子守りを頼むことのどこが「かわいそう」なんだ!?「どーいうこと!?」と暴れれば良かったのだが、実際には寂しさで固まってしまった。
子供が1歳半を迎える頃、団体戦の人数あわせに試合(市民大会)に出ないかと誘われた。びびる私に「いーのいーの!そんなこと言ってるといつまでたっても戻れないよ。私たちだっていつ子供生むかわからないんだから遠慮しないの!」と女たちはいつもやさしい。
試合の楽しさはゲームのおもしろさだけではない。気の合う仲間たちと、夢中で応援したり悔しがったりして過ごす、その時間こそが魅力的なのだ。ところが前夜夫の言うことにゃ、
夫:「明日、旬太郎連れて俺も応援に行くよ」。
私:「えっ!?いいわよ、うちでゆっくりしててよ。」
一生懸命来ないでとお願いしてみたが・・・。翌朝起きたら、夫がせっせとおむすびを握っていた。ほかほかの卵焼きにきんぴらもできてる。・・うう参った。
試合中、2階観客席から息子の声が飛ぶ。「おかあちゃ〜ん、がんばって〜」。あれえ、気が抜けるう。でもこれが良かった。いつも勝ち負けを意識してがちがちになる(へたくそのくせに欲深い)私が、自然体でプレイできたのだ。結果はまずまず。負けるべくして負け、勝てる相手にはちゃんと勝てた。息子はみんなにかわいがってもらっておりこうにしていてくれた。それなりに楽しい1日だった。
このときをきっかけに、長年1人暮らしをこよなく愛してきた私も、「家族で楽しむ」と言うことがわかり始めたように思う。
さて、人々の心ない言葉に怒ったり悲しんだりしていた私は、ある日突然気がついた。
『ひとから「いい奥さん」と思われたいからイライラすんじゃないの?』
そうだったのだ!。人々のふる〜い女性観に傷つけられている、と思っていたが、実は自分の中にも同じものがあって、その通りにできない自分をちくちくと苛んでいるだけだった。なんだあばかばかしい。人からどう思われようとヘーき、とさえ思えれば全てから自由になれたのだ。でもこれが難しいんだよね。
後日談。楽しかった試合の2ヶ月後、私は第2子を妊娠した。36歳でその子を産んだ後はがっくり体力が落ち、バドミントンには戻れなかった。執着した割にはあっけない終わりだったが仕方ない。
ちなみに夫は変わらずいそいそ通っている。私もバドミントンよりはぐっとライトなラケットテニスを始めた。夫、子供と共に。
井上洋子さんへのメ−ルはこちら
★ちょっとティー・ブレイク★
「CDが出ます!!」 馬場 信子 (琴薫信会)
馬場 信子オリジナルを含め、
今までコンサートで好評をいただいた曲や、
アジア3カ国の琴の共演、シンセやパーカッションの方たちの
素敵なサポートをいただいて、「お琴の音楽」の枠を超えた
ファーストアルバムができました。
11月15日発売です。ぜひお求め下さい。
KOTO 「煌(KIRAMEKI)」
お問い合わせ
カジュ・アート・スペース0467-23-3663
馬場信子葉山スタジオ 0468-76-2285
Home Music 044-870-4226
*カジュでご購入されますと、馬場さんのサインが入ります。
「ろくでもない小学校の思い出」古市涼子 (こども造形教室講師)
何の役にも立たないくせに、見ると捨てられない・・・・。
そんなタチの悪いゴミでいっぱいの机の引き出し。
勇気を出して開けてみた。
どこだかわからない神社のお守り、授業中に書いた手紙、
英検の合格通知(3級)、映画村の集合写真・・・。
本当にタチ悪い。
そんな発掘品のひとつ、「小学校の思い出」
作: 大正小学校6年2組 古市涼子
略文: 4年生のとき、倉崎さんが自分の部屋で、バッタとちょうちょを
放し飼いしてたので、うらやましかったです。5年生のとき、
私のバッチでゴキブリをつぶして悲しかったです。
6年生になって、運動会の騎馬戦で、町田君がすごい顔で
こわかったです。でもおもしろかったです。
これが「思い出」なのか?小6の自分に問いかけつつ、
やはり、引き出しはそのまま閉じた・・・。
古市涼子センセのコラムは、ファン急増のため、来号のカジュ通信から
レギュラー化が決定しました。お楽しみに。
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